「日風上人のことども⑦」
住職 小野山 淳堂
御教歌
願はくはみのりの為に身を尽し
心をつくし仕へはてなむ
十三日は門祖会。第十支庁長・直方法薫寺の小佐井日勝上人にお勤め頂きます。随行は中学生の矢野良隼師で、ご信者が一・二座共にご利益談を発表してくださいます。春らしいお会式になるようご祈願し、参詣にご奉公に気張りましょう。
廿九日は立教開宗記念口唱会(記念日は廿八日)。今月も共に楽しく信行ご奉公させて頂きましょう。
さて、今月から日風上人ご一代の中、出家得度されてからのご奉公をご紹介させて頂きます。
日風上人は十一歳の時、開導聖人のお膝元に入り、要人と名前を頂き、その信行ぶりは顕著で、開導聖人が作成された『追分組佛立講法門合勝負附』には十三歳の日風上人が西の横綱と記されています。
開導聖人は大津法難を機に京都の宥清寺に入られましたが、日風上人は追分法華堂に残って開導聖人がご入滅された翌年の明治廿四年迄の廿年間、学徒としてご奉公されていました。
しかし、日聞上人が開導聖人の亡き後、佛立講を率いてご奉公されると、開導聖人が「弟子現喜を二代目の導師、それがしのかはりと尊敬して当流の御法義を謹みて堅く相守り、繁栄を祈らせ給へ」とのご遺言を守り、日聞上人をお師匠に卅六歳で出家得度、「清衛」と僧名を頂かれたのでした。
得度された明治廿四年十月二十八日。日風上人卅六歳の時、マグニチュード8の美濃大地震が発生。その第一報は「ギフ・ナクナル」でした。
日聞上人のご命により、日教・日風上人が先ずご奉公に入られ、日教上人が程なく東京へ東上された後、日風上人は六カ年のご弘通に励まれたのでした。
日聞上人は「大垣地方御弘通の人々は中々の辛苦なり〇其一をいわんに宿屋の便所に屋根サへなし」と京都のご信者にご披露され、「喜捨箱」を置いて五厘でも一銭でも喜捨して御弘通費に充てよと勧められましたが、「出来る人はこころざし薄く、出来ぬ人はこころざし深きには実に感涙おさえ難く候」とも記して、出張の両師には今の教化の数では物足りないと督励しておられます。
私の祖母は、日風上人は「一遍でも御題目を唱えたらこのお金をあげると言ってお教化された」と言っていましたが、日風上人も私財を投げ出し、何とか日聞上人や京都のご信者方の期待に応えようと必死でご奉公されたのでした。
大垣の長嶋甲一さんは入院中に角膜炎になり、終いに眼球が飛び出るといわれ悲観するも、日風上人に「入信したら一週間で治る」と折伏され入信したが治らず。十三日目に兄の慶治郎氏が日風上人にこれを告げると謗法払いができていないからだと教えられ、兄弟で親会場に行くと、謗法払いができたから今晩ご利益が頂けると言われて一心不乱にご祈願していると、その晩十一時過ぎに目が見えるようになり、その後完治するご利益を頂かれたのでした。
また、当時入信された大垣のご信者の加藤富右衛門氏は、私の末娘が嫁いだ神戸佛立寺の加藤喜遵師のご先祖で、不思議のご縁を感じています。
御指南「身を捨て佛果を成ぜんとするに佛菩薩の守り有て身をも助かる」(扇全17・271)